徳善寺の歴史と今

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宝珠山徳善寺は、今より300有余年前、天和年間に興隆正法・念仏相続の聞法道場として建立されました。

創建当時のこの地(現:奈良県大和高田市)では木綿等の商品作物の栽培が盛んに行われ、また大阪への物流の中継地として発展しつつありました。

当寺は北に高田川(現在は埋め立てられ道路)、南に長谷街道という絶好のロケーションにあり、初期大和高田の中心地に創建されたのです。

そもそも浄土真宗の寺院は聞法道場であり、人の集まる地こそが真宗寺院の望まれる場所でもあったのです。
したがって徳善寺がこの地に建立されたのも必然の事であったわけです。

草創より、第8世祇道に至るまで、江戸幕藩体制の中、幾多のご賛助に支えられながら、つつがなく法燈が継承されました。
そして、時代は明治・大正・昭和と変遷し、世相も激変します。

明治5年、学生令の発布により、近代学校の誕生を迎える事になります。
明治7年2月、葛下郡三倉堂及び今里の2ヶ村が連合して、徳善寺境内地内に博収舎(現:浮孔小学校)を創設。
また当時の住職であった第10世覚道は首座(現:校長職)を拝命し、地域の初等教育の一翼を担いました。

しかし、大正から昭和初期は我が国にとっても、徳善寺にとっても不遇の時代でありました。
第12世宝遠は31歳の若さで病死。(後継の覚雄はこの時、4才の幼子でありました)その後、成人して第13世住職となった覚雄も出征。長期間の住職不在や戦争等の影響もあり、門徒の一部が離散。
また、戦中・戦後という厳しい情勢下、経済的にも苦しく、寺宝を手放さなければならないほど困窮していたようです。幸いにも出征していた覚雄は無事お寺に戻る事ができ、法務伝道に励みました。
その後を継いだ第14世好史は英数研究会(学習塾)を開校し、元来の寺子屋的教育にも情熱を傾ける一方、門信徒皆様と一致団結し、老朽化し限界を迎えていた本堂を再建(昭和56年建立)致しました。

平成25年に現在の住職、第15世史孝が継職し、現在を迎えるに至りました。

合掌